2012年6月11日月曜日

牧師のひとり言 NO3

                       初老牧師:友川 栄

「恵を数えて!」
 
  登米教会の牧師として着任して早いもので約2ヶ月半が経とうとしています。着任して驚くことは余震がほぼ毎日続いていることです。しかし、ここに住んでいる方々は慣れているのか、気にしている様子。下関では分からないことですね。約1月以上の前に、宮城県の南三陸町に行きました。
昨年の津波で壊滅的な被害を受けた水産業の街です。復興には、長い厳しい時間がかかるでしょう。胸が痛みます。

  さて、イエスの12弟子の4人は漁師です。弟子の1/3人が漁師ということになります。ペトロはその中の一人です。漁師は自然との闘いです。プロです。素人には分からないことが多々あるでしょう。ペトロはイエスに「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を立てる」(新約聖書マタイ16:18)と言われたのですが、土壇場でイエスなど知らない」と嘘をつく。彼は失意の中、故郷のガリラヤへ戻るものの、意欲を失い仕事どころではなかったと思う。大きな挫折を味わったペトロに復活したイエス・キリストが現れる。

  そして「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(ヨハネ21:6)と語る。聖書に親しんでいる人は「おやっ?」どこかで読んだ記事と思うでしょう。イエスが十字架刑で亡くなる前、ペトロが弟子としてイエス・キリストに弟子とされるときの記事(ルカ5:1以下)に酷似しています。イエス・キリストは夜通し漁をするものの、一匹の魚もとれないペトロに「沖に漕ぎ出し網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5:5)と促す。ペトロはイエスの言葉を半信半疑ながらも網を降ろす。すると多くの魚が網にかかる。

  彼はイエスの信仰が如何に薄い者であるかを認め「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)と懺悔する。イエスはその罪深いペトロを弟子と選ぶのです。イエス・キリストの選びは、私たちの選択基準とは全く違います。出来るか出来ないか(成績や業績?)で選ぶのではない。イエスの信頼(愛?)で選ぶ。その出来事が、イエスが死から復活した後に(ヨハネ21:1以下)再現する。ここではイエスのお言葉を信じて網を降ろすと、153匹の魚が取れてと書き残しています。
  
  魚を数えたのです。「一匹」「二匹」・・・と数えた。大漁なら魚を数えないのが普通な筈ですよね。正確に数えたということは、一匹、一匹が「恵み(奇跡!)」と思えたからでしょう。私たちは「生きている」「歩ける」「食べれる」ことを「恵み」受けとめているでしょうか。当然とは考えていません?。平凡な生活を送れることが、実は「恵み」なのでは?。違います?些細なことを「恵み」「奇跡」と受けとめられたらいいなぁ。「初老」もいいですよ?!。

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