2012年9月11日火曜日

牧師のひとり言 No15


                               初老牧師:友川栄

「あの素晴らしい愛を・・・」

「光の子らしく歩みなさい」(エペソ5:8)の聖書のみ言葉は、かつて十数回ほど朝の礼拝で奉仕をさせていただいた梅光学院の標語でした。中学校、高等学校が教会から徒歩で数分でしたから、生徒たちの歌う讃美歌が聞こえる・・・。その賛美にどんなに慰められたか知れません。関門海峡を往来する船の汽笛の音(ぼ~!私の頭も時折「ぼ~!」としますが?いつも「ぼ~!」では?などと言われると

へこみますなぁ?)とともに忘れられない思い出です。

 エフェソの信徒への手紙は伝統的にはパウロが書いたとされていますが、今はパウロの弟子がパウロの名を借りて書いたとされています。著者は不明ですが、私はパウロが書いたという説も捨てがたいと思っています。エペソはパウロが伝道したところです。福音の種を蒔き、信じる人が起こされる。しかし、この手紙を読むと分かりますがクリスチャン全てが模範的な人々ではなかったらしい。誤解やすれ違いや、対立があったようです。

クリスチャンになれば、欠点も弱さも一切ない「天使」になる訳ではありません。常に「途上」にあるのですよ。ちゃらんぽらんではいけませんが、失敗をすることもありますし、図に乗ることも・・・。そのような者でも、イエス・キリストに支えられながら健やかに成長するもの。エフェソ書を読むと分かるのですが、神がまず私たちを選び、愛されたことを強調しています。神の絶大な恩寵です。先行する神の恵み。

「光の子らしく歩みなさい」とはどういう生き方なのでしょうか。次に続く「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェソ5:10)「だから、・・・主の御心が何であるかを悟りなさい」(エフェソ5:17)がヒントになるでしょう。つまり神が喜ばれることをなすことです。主の御旨をなすこと・・・。神の御心を問い、それを求めて生きていくことですよ。自分の願いや祈りではりません。試練に遭えば必死に祈りますが、願が叶えられるとは限りませんから・・・。

将に人生は平坦な道ではありません。山あり谷ありの道程。「今は主にあって光となっている」に注意をすべきです。「in the Lord」です。新共同訳では「主に結ばれて」と訳していますが、何かが足りないと思っています。「主に囲まれて」とでも訳すべきでしょうか。光の源は私たちにはないということです。イエス・キリストが光なのです。その光を受けて生かされている。光を反射している。キリストの愛にしっかりと護られている・・・。

よく自分には「信仰がない」と落胆する人がいます。他者のために喜んで奉仕をしている人などを見て「立派」とか「素晴らしい」などと羨む人もいます。16世紀に宗教改革を行ったM・ルターは「他人と比べることが罪である」という趣旨のことを書いています。どこかで他者と比較をして一喜一憂しがちですが、神から固有の賜物をいただいているのですよ。口下手でも良い。それは聞く能力が優れているのかもしれないのですから・・・。弱い者でも、神は「光の子」としてくださる。命を捨ててまで愛とは何かを教えてくださった。神は「あの素晴らしい愛を・・・」限りなく与えてくれる?!
 





アクセスいただき有難うございます。少し忙しくて「サボり」ましたが、次週を、また、また、また、また、また、また「また遭う日まで!」を楽しみにしています・・・。


























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