2012年10月18日木曜日

牧師のひとり言 NO20


初老牧師:友川栄

「BUT、・・・倣いたいなぁ」

 人生は出会いです。私たちは、色々な人々や書籍、映画などを通して、刺激や感化を受け成長していくのではないでしょうか。私にも
素晴らしい出会いが多くあります。最高の出会いは「神」と「イエス・キリスト」を信じることが許されたことですね。信仰を同じくする妻に出会えたことも感謝しています。登米教会のメンバーや登米幼稚園の園児・保護者と出会えたことも宝の一つですよ。

聖書には「神との出会い」と「イエスとの出会い」を許された多くの人々が記されています。兄弟マルタ、マリア、ラザロもその家族です。それも、ラザロが重病に罹り亡くなる。イエス・キリストがラザロを復活させる衝撃的な(奇跡?)出来事です。ヨハネ福音書11章を読むと分かりますが、どうもイエスは以前から彼らをよく知っていたらしい。でも魂の深みまで分かりあえる交わりではなかったことでしょう。

姉妹マルタ、マリアにとって、イエス・キリストの存在の重みを知ったのは兄弟ラザロが亡くなるという深い悲しみを通してでありました。愛する者を失うほど悲しいことはありません。しかし、亡くなって初めて知る愛や絆の尊さを知ることもあります。死別は悲しいことですが、マルタとマリアにとって兄弟ラザロの死がイエス・キリストとの交わりを一層深める契機となったことは間違いありません。深い絶望が希望の光を見出す千載一遇の好機となり得るといえます。絶望を味わった人なら知っている筈、そうではありません?

マルタ、マリアは深い悲しみを味わいながらもイエス・キリストとの交わりを絶たなかった。ここが要。イエスに縋り付き、聴き続ける。問われ、正される。これが信仰の真骨頂。イエス・キリストも一人の人間として死を味わう。単なる傍観者ではない。「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)とあります。痛みを知る神です。悲しむ人々に寄り添い、共感、共振するイエスです。辛い人々には「傾聴」「寄り添う」必要性を見事に書いている人でも、実質自分のことだけ考える人が意外と多いもの。私もその一人かも・・・。BUT、それでもイエスのみ言葉に聴きつづけたい、倣いたいなぁ!。

アクセス有難うございます。また、次週に「また逢う日まで」を楽しみにしています。「えっ!」「もうウンザリ!」などと本音を言わずに・・・。お願いですから!!!。