2012年10月26日金曜日

牧師のひとり言 NO21


初老牧師:友川栄

「もく、もくと」 

 キリスト教において祈りは「呼吸のようなもの」といわれます。祈らないと信仰が枯渇してしまいます。人間は身勝手で怠惰ですから、自分の願いのみを祈り求めてしまう。叶えられないと
信仰を捨ててしまうことも。ご利益宗教はこれに終始しがちですよね。それに人間はご利益に弱い。病が治るとか、お金が儲かるとか・・・。家族や友人が重篤な病に罹った時は、私も必死に祈りますよ。私もご利益に飲み込まれることがしばしば・・・。でもキリスト教(キリスト教でも奇跡を売り物にしている教会がありますので、お用心ください!)の祈りは人間の願いを必ず実現させるものではありません。癒されるのは神の御心だからですよ。

 今日のヨハネ17章のみ言葉は、イエスが十字架を目前に近づいているのを感じ神に祈りを捧げているところ。「大祭司の祈り」と呼ばれている。深遠な内容の祈りです。この中で「彼らも(イエスの弟子たち)一つになるため」(ヨハネ17:11,22)との言葉が繰り返されています。なぜ「一つになる」ことを願ったのでしょうか。クリスチャンに対する迫害に恐れをなして信仰を捨てた人々がいたらしい。一つになれなかったのです。私たちも不協和音が出てくると「一致協力して」「団結して」などと願う。協議をするが、収拾がつかないことも。馬が合わない人もいますよね。

同じ信仰を持つクリスチャンも同じような問題に出くわす。どう解決したらいいのか分からないことも。そんな時に、イエスの祈りが大きなヒントになります。イエス・キリストは人間の決断や協力(勿論、これらを軽視していません)で一つになれないことをよく知っていた。神が介入して初めて一つとなれる。イエスの愛が軋轢を溶かしてくれる。いや「神の愛」が人間の分裂を収めてくれるのです。「神の愛」とはイエスの十字架です。

他者のために命を捨てる愛です。この愛に生きることで絆が深まる。欠点や違いもプラスに働くことを知る。イエスは言葉だけでなく、十字架刑に架かることで愛とは何かを教えてくれたのではないでしょうか。「隣人愛」について多数本を書いている人が、誠実に他者を愛しているとは限りませんよ。金儲けや、名誉欲で書く人も・・・。嗚呼、何と人間は浅ましいことか?人を愛することは永遠の課題ですね。しかし、どんなに困難でも崇高な人生を歩みたいなぁ! 偉ぶらず、卑屈にならず、もく、もくと!