2012年11月23日金曜日

牧師のひとり言 NO24


        初老牧師:友川栄
「全て神に委ねて」

 「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉に、イエス・キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と命じています。人間としては不可能な
勧めではないでしょうか。私も正直、実行する自信がありません。牧師として33年以上奉仕をしてきましたが、「馬が合わない人」「喧嘩をした人」がいましたから。

ましてや「敵」ですよ、「愛せる訳がない」と思ってしまいます。誰にでも「嫌な人だなぁ」と思う人が一人や二人いるのではないでしょうか。表だって「大喧嘩」をすると生活がなりたたない危機感から「ぐっと耐えている」だけでは・・・。また、心身が崩れないために「距離を置く」ことも時には必要です。イエス・キリストはそれも断固拒否しているのでしょうか。

 「隣人を愛し、敵を憎め」(マタイ5:43)という方が非常に楽なことかと思ってしまう。「目には目を、歯には歯を」(マタイ5:38)のように、心の片隅で、やられたら復讐する方が「すっきり」すると思いません。心身ともども「ぼろ、ぼろ」になるまで他者のために「仕えなさい」と勧めているのでしょうか。心の中で「憎み」外見では「笑顔」をしなさい、という意図なのでしょうか。イエス・キリストの真意はそのような趣旨と違うと、私は信じています。
 
イエス・キリストは「天の父(神)は、悪い者の上にも良い者の上にも、太
陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである」(マタイ5:45)と語っています。そうです、神は「悪い者」「良い者」がいることを知っておられる。でも、「悪い」「良い」「正しい」「正しくない」者を知っておられるのは神のみですよ。ここを「はき違え」ては困るのでは・・。

私たちはどうしても自分が正しいと考えてしまう。自己卑下も「高慢」の裏返しですから。矢張り、自分中心。「やられたら、やりかえす」という手法は歯止めが効かなくなります、歴史がそれを証明している。イエスの勧めには、お手上げです!しかし、イエスは敵を赦し十字架に架かってくださったのは確かです。不可能と思うことをイエス・キリストは自らの命を捨てて示してくださった。それが「真の愛」。ですから、唯々、神に委ねるのみ・・・