2013年12月11日水曜日

牧師のひとり言 NO28

                                     初老牧師  友川 栄

 「罪の怖さと赦しの深さ」    

   キリスト教はいつも「人間は全て罪人」と説くので嫌いだという人がおられます。確かに人間的に見れば、クリスチャンよりも人格的に優れた人が大勢です。無報酬で喜んで奉仕をするノン・クリスチャンも少なくありません。しかし、キリスト教では、
全ての人間は「罪人」と捉えているのです。「罪」とは犯罪も含まれますが、心の内面を問う。外見では分からない魂の問題を凝視するのです。私たち人間は嫉妬、欺瞞、高慢、殺意、貪り、財産、名誉心などからどれ程自由でしょうか。自由な人は皆無でしょう。

私は牧師を30年以上続けていますが、未だに他者を嫉妬したり、傲慢に陥ったりする者です。将に「罪人の頭」と恥じ入るばかりです。逆説的ですが、その「罪」を悔い改めるために「牧師」とさせていただいているのかも知れません。自分の愚かさと命まで捨て救ってくださったイエス・キリストの愛の深さを知るために「牧者」とならせていただいたのでしょう。唯々、一方的な神の憐みです。聖書と格闘しながら、戒めを受け、励まされ、心が燃えます。

さて、イエス・キリストは罪人と考えられていた人々と分け隔てなく食事をしたようです。当時にしては革命的なことだった筈です。またユダヤ人は食物規定に忠実です。食べて良い物と食べていけない物を峻別していました。当時の宗教的指導者のパリサイ派や律法学者の人々は更に厳格だったようです。食事の前には必ず手を洗ったらしい。しかし、イエスや彼の弟子たちはその規則からも自由だったのです。

   イエスは「どんな食物でもきよいものとされた・・・人から出て来るもの、それ
が人をけがすのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る」(マルコ7:19~21)とその理由を述べる。人を汚すものを続けて記す。「不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴」(マルコ7:21,22) このような思いを抱いたことの無い人は何人いるでしょうか。愚痴ることがないでしょうか。妬むことは無いでしょうか。ついつい自分の経歴を誇らないでしょうか。嗚呼、情けない、情けない、罪を懺悔するのみ。