2012年7月30日月曜日

「牧師のひとり言」NO10

初老牧師:友川栄

You are not alone!

キリスト教で「祈り」は呼吸のようなものです。イエス・キリストも常に神に祈りをささげていました。イエス・キリストが十字架に架けられる前の「ゲッセマネの祈り」は壮絶そのもの。イエス・キリストは十字架を回避できるようにと切に祈りましたが、最後は十字架刑を「神の御心」と受け入れ、全てを神に委ね十字架へと進む。命を捨てることで
「神の愛」を示してくださった。神の御旨は、私たちの願いを遥かに超えているということでしょう。

私たちは往々にして神を利用しようとしませんか。願いが適うようにと祈るのが本音ではないでしょうか。しかし、キリスト教の祈りはそれとは違います(初めは、そう祈るのですが・・・)。神の御心が、最終的に実現することを祈り求めるもの。でも、どうしても自分の願い、祈りを求めますよね。それも許されますが・・・。願いが通らないと、祈りを止め、神を捨ててしまう。神を人間の「御用聞き」と思うからでしょうか。

人生には理解できない艱難や試練に遭遇することがありまよね。「なぜ今?」「どうして私が?」などという試練に遭遇する。しかし、様々な苦難を通して鍛えられる。余計な「贅肉(価値があると思っている、お金?、名声?地位?などなど)」が、そぎ落とされる。何が大切なかを体得する。本当に大切なことは意外と少ない。私たちは色々なことで心を煩う。信仰を持っているクリスチャンも程度の差こそあれ動揺する。不信を抱く。

イエス・キリストはガリラヤ湖畔で5千人の人々を5つのパンと二匹の魚で養う(新約聖書:ヨハネ6章1節以下)。その後、弟子たちをしてガリラヤ湖畔の向こう岸に船で行くように促す。丁度、湖の半ばに差しかかった時に、逆風に煽られ弟子たちは「あたふた」する。そこへイエス・キリストが湖上を歩いて近づく。おそらくペトロと弟のアンデレも乗船していたことでしょう。ペテロとアンデレは漁師。漁師は自然の猛威を知らないと仕事にならない。プロ故に知る怖さもありましょう。これは弟子たちへの教えであるとともに、私たちへの警鐘でしょう。

 困難や試練を耐え抜くことで見えてくることがある。ペテロは漁師という経験がありましたが、所謂テクニックでは対抗できないことが自然には多くあるもの。私たちも同じことを幾度も経験するのではないでしょうか。所謂、長年培った経験が全く通用しないことが何と多いことか。心が折れることも。年を重ねると漠然とした不安がつきまとうし、信頼していた人々に裏切られることもある。人間は所詮被造物ですから、自分が可愛い。

しかし、イエス・キリストは最後まで寄り添う。人間は限界がありますが、「神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)を知っていただきですね。危機ときにこそ千載一隅のチャンスですから。失敗、挫折、遠回り(余り経験したくないですが!)大いに結構?!。イエス・キリストが導いてくださる。「恐れるな!」と励ますキリストの応援に押しだされて進んでいきたい。三歩前進して、二歩後退の歩みでも!。You are not aloneと神は語っておられるのですから・・・。


 次週もまたお遭いしましょう・・・「また遭う日まで!」を楽しみにしていますよ

0 件のコメント:

コメントを投稿